偶には、おもろい話がいいかも、如何??? 失敗の歴史

順に行きます。<その一>
⓵朝鮮でまだ戦争に負ける前の頃の話、今京都に住んでいる2番目の姉がよく自分をからかったときに、言った話、自分達がポットン便所に悪ガキと一緒に棒を突っ込んで、かき回して親を困らせていて、よく親に叱られていた、ヤンチャやったなあと今でも偶に会うと言われている。
②滋賀の田舎で、小学校の4年か5年くらいの時、悪ガキにそそのかされて、親の財布から金を盗み出し、隣の字の沓掛にある駄菓子屋で菓子を買い、隠れて食っていたのがばれて、表の中仙道の真ん中で。親父にこっぴどく張り飛ばされて、泣きながら「もうしません」と謝っていた話。その仲間の名前はまだ生きているので、H君(同級生)とだけしておこう。
③小学年か3年の頃、八日市の飛行場を開墾して、愛知川町石橋の自宅から相当離れている畑まで親父と自分とあと姉が多分二人、で大八車を引いて往復とも歩いてサツマイモ植えや、取入れや、水遣りに良く行かされて、ヒイコラ云いながら、それでも頑張った楽しい記憶、同時に愛知川の河川敷の畑も同時進行だった。これも同じく大八車を引いて結構な坂道を頑張ったこと、これで食料を確保していたものだ。むろんすべての道は石がごろごろしている土の道だった(舗装道路なんてどこにも無かった)。田舎では「ブトウ」と言ったが、ぶよの大群に喰われて出ている足なんかは血が固まって赤黒い粒粒だらけ、胡麻模様の足だった。痒いとか痛いのを通り越し、その粒粒を見て気持ちが悪かったのを覚えている。
④そのころ長女は女学生、所謂高校1年生くらいだったが、この石橋という字の借家から約百メーターほどある畑まで中仙道を、肥え桶にポットン便所から、大きな柄杓で汚物(肥料)を組み入れて、それを2個前後につって運び、畑の野菜にやっていた。さすがに尊敬したものだった。
16歳くらいの女の子ですよ、想像してみて下さい。今、出来ますか? たくましい訳です。
⑤そのころ、子供は夏場は字石橋と隣の字豊里の間にある愛知川の支流の宇曽川で水泳や魚とりで遊んだ。川から上がると橋の欄干に伏せて背中を太陽で焼いたものだった。
この頃ぞっとしたのは、村の乱暴者が一番弱い奴を虐めて、水に溺れさせたり、酷いときには魚を突くヤスを遠くに立たせた、この人に投げつけて虐めた時があって、これが見事に足の甲に突き刺さったのだ、これにはさすがに皆びっくりしたものだった。
この豊里は伊藤忠商事の創始者伊藤忠兵衛さんの出身地である。豊里小学校、豊里病院など多くの財を寄付しておられ、地元で伊藤忠と呼び捨てにする人は皆無だった。
この豊里まで学校からマラソンをやって、一時だけだが小さかった自分が先頭になっていて、怖かった吉岡先生に「山椒は小粒でもひりりと辛い」などと褒められて有頂天だった。
⑥彦根城の傍にある彦根東高校2年の時、自分を小馬鹿にした大男に腹が立って、見事に顔面に一発喰わせてやった、ここまではよかったが、翌日この男は、2fの廊下で自分の顔を張り倒した。その結果、見事に自分のメガネが窓から外へ飛び出した。結果は1fの土の上にあったのだが、見事無傷だった。
1回目はこのくらいにしておこう。


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